福祉のページ

2009年04月14日

介護報酬の裏


費用算定に惑わされて矜持を捨てるな。
介護保険の各種サービスは、基本的には出来高に応じて支払われる介護報酬で運営されているから、介護サービス事業経営者が、その収入を適切に確保しようとすることは必要不可欠な経営視点であり、サービスを継続する為にも収益を上げる視点を持つことは否定されるものではない。

これはこの制度上、民間営利企業であっても、社会福祉法人であっても、医療法人であっても同じである。社会福祉法人や医療法人だからといって、赤字を出した分を補填してくれることにはなっていないので、最低限の運営に必要で、かつ従業者が生活の糧を得られるべき適切な報酬を確保する為には、収益を考えないで運営するということはあり得ないのである。よって法の範囲で定められた介護給付費を適切に、かつ効率的に収受するという方法を経営の見地から考えることを否定しない。むしろ必要不可欠な経営者の視点であり、そのセンスに欠けていれば、事業経営者として失格である。

さらに言えば介護報酬の構造は、役人がひねくり回して加算だらけの複雑な構造にしてしまっており、それは結果的に加算を算定できなければ適切な事業運営に支障をきたすほどの低レベルな基本報酬体系としてしまっているんだから、この加算を適切な方法で算定することに何のためらいも持つ必要はない。

しかし、である。それも限度と節度のある話で、加算算定の適切さを間違って捉えている向きはないのか?

社会福祉事業や介護サービスの対象者は、支援を必要とする高齢者や、障がい者の方々であることを鑑みると、きちんとした理念に基づくサービス提供という視点が、その一方になければならないはずである。これもサービス提供主体が民間営利企業であろうと社会福祉法人であろうと、医療法人であろうと変わりない問題である。それは人の命や幸福に関わるサービスであるからであり、誰もそれを犯す権利を持っていないからである。

そして介護サービス事業とは、この国の社会福祉制度の底辺を固めている基盤サービスであるという自覚と矜持が必要なのである。それは偽善的精神でいうのではなく、なによりそれが自分自身に帰ってくる問題だからである。

それさえも否定した利益優先主義がはびこれば、人の不幸の上に制度が胡坐をかくという状態になってしまい、理念なき悪徳事業者が生き残って社会の財を自らの懐にねじ込むだけの結果に終わってしまう。

そうなれば我が国の社会福祉は崩壊の一途をたどり、介護という名の荒野で、人の流した涙の川で、一部の亡者が汚れた手と顔を洗いながら、次の獲物を待つがごとき荒涼殺伐とした未来図が出来上がってしまう。しかしその負の遺産は、やがて全ての人々の身の上に降りかかってくる問題で、食い物にした人間が、やがてはもっと強い誰かの餌になっていく。一時的な富をそのことで得た個人も、弱肉強食の社会システムの中で常に強者に位置していることはあり得ず、長い目で見れば、自身に降りかからない不幸でも、自身の身の回りの大切な人々が、その負の遺産によって復讐されることになるであろう。これはもう亡者の世界であり、地獄図である。

ところが日常のさりげない事業運営の中で、介護サービス従事者が気付かないところで自身が「亡者」になっているのが、今の介護保険制度における現状ではないのか。この恐ろしさに本人たちは気がついているのだろうか。

あるサイトの書き込みを読むと次のようなケアマネの「嘆き」が書かれている。某デイサービスセンターから「体調の悪い利用者がいて、入浴ができないんですけど、髪の毛を洗ってほしいという希望がありますが、入浴加算を算定できますか?」という問い合わせが担当ケアマネジャーにあったそうである。

もちろん現行制度の報酬算定ルール上は「シャワー浴」は入浴加算の算定ができるが、清拭や部分浴は加算算定不可であり、シャワーを使って洗髪をしても入浴加算は算定できない。これは何も部分浴や清拭や洗髪のみの介助を行う必要がないという意味ではなく、それだけのサービスについては基本報酬に含まれている費用の中で行うべき行為で、別に加算は算定すべき行為とは認めていないという意味である。

しかし、洗髪のみで入浴加算を算定できないことを事業所に告げたところ、その事業所では洗髪介助のみの支援は行われなくなったというのである。

なんということだろう。入浴ができないけれど、髪は洗えないかという要望に対し、加算算定の有無だけがその実施の基準になるというのだろうか。「そんなことをしても金にならないから無理です。」ということで良いのだろうか。気持ちよく通所サービスを受けるためには、入浴ができない場合でも、それに替わる清潔支援を何らかの方法で行うという行為の必要性は二の次で、全ての行為に対して費用算定できなければ行うことが損失だとでもいうのだろうか。それもわずか 500円のためにである。

洗髪台あるいは洗面台で髪の毛を洗うお手伝いをする手間など、全体のサービスの中で考えれば、決してできない行為ではない。その人が体調悪化で入浴できない分、それに係るサービス時間は少なくなっているんだから、なおさらである。それを費用算定の視点でしか考えられなくしているのは、この制度の欠陥なのか、従業者の資質の問題なのか。

必要なサービスで、実施可能なサービスであるなら、ルール上は費用算定できなくとも行うことができないかという視点から物事を考えるのが本来の対人援助であろう。

加算が取れれば援助する、取れなければ知りません、ということで本当に利用者と事業者の信頼関係は築けるのだろうか。その事業所の理念は実現できるのだろうか。そこで働く人々の仕事に対するモチベーションとは何なのだろう。そこで洗髪介助をしなければ、あと何日後に髪の毛を洗うことができるという保障のない利用者の生活を見つめているのだろうか。

もし、うちの施設や事業所で、僕の知らないところでそういう理由で支援を断わったら、関係職員には「その利用者さんが洗髪できるようになるまで自分の髪の毛も洗うな!」というだろう。

どこか歪んでいることに気がつかない人々が、この業界に増えているような気がしてならない。

小さな勘違いが自らを「金の亡者」に変えている事に気付かずに仕事を続けている介護サービス従事者がいかに多いことか。適切な費用徴収と、この問題はまったく別次元であり、その線引きなどさして難しい問題でもない。ここの線が見えなくなっていること自体が、狂っている証拠である。

適切な収益は大切だが、その前に我々の目の前にいる、一人ひとりの利用者の生命や暮らしを守ることが何より優先されねばならないという、ごく当たり前のことを考えられなくなるというのは、金の恐ろしさであろうか。

これでは金に人が使われてしまっている状態だ。

金の奴隷になり、人としての矜持を失ってしまうことは、自己否定と同じである。
posted by けいけいちゃん at 23:35| 京都 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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